heiunoのブログ

 元 フリーのアニメーターです。ここで何ができるか楽しみです。

字でなく絵

 私のようにあまりにもブログをほっておくと、そろそろ記事おかきになりませんかとメールに入るのです。

 このシステムはどうなっているのでしょう。 無限ともいえる中から、ちゃんと監視くださるようで、感心してしまいます。

 私にはありがたいものです。

                             


 文章を書くのは意外とむずかしいものです。

 ふだん文を書かない私にとって、書いたものを読んで、そう感じます。

 だれも読まないからよいようなものの、行間からあぶり出しのように自分が浮かび上がってくるのですね。だから自分が恥ずかしくなるのです。

 

 すこし勇気をもって。

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 初めてものをかいたのは字ではなく絵でした。

 昭和20年、私は4歳です。世間は何もかも不足の時代です。

                             

 終戦直後、田舎でしたが、冬になれば凧が上がるのでした。

 親に凧を買ってくださいとはいえぬ自覚がある子供でした。そもそも何かを買う

などとは発想もできない時代です。

 

 当然のように自分でつくればよいと考えるのです。 竹などはその辺にいくらでもありました。凧をみて、見よう見まねげたちまち骨組みなどつくってしまいます。

 鉈や小刀は幼児でも簡単に手にできる時代です。  4~5歳でも苦もなく竹ひごなど作ってしまうのです。

 

 竹を鉈で割ります。凧は軽くないと上がりません。ひごを肉うすに削ります。

 細く割ったひごは皮の部分をズボンに当て、小刀を押すのではなく、ひごの方を引くのです。すると簡単にカンナで削るようにきれいに削れます。これなどはやって身につくのです。

 

 まれに滑って指を傷つけたり、竹で指を切ったりしました。スパリとまことによく切れるのです。切っても医者にいくなどの身分をもちません。指などはいつも傷だらけで

赤チンなど自分で塗っていたのを思い出します。

 

ひごを 何で結わえるかというと、母がぼろ布からぬいて丸めておいた糸くずを繋げた

糸くずです。のり はうどん粉をといてつかうか、米粒でも貼れるのをしっています。

 

 さて、貼る紙がありません。

 当時は新聞でも1枚です。2枚は無い時代。父が読んだあとは習字の練習につかったようです。

 そのあと便所(当時便所といった)の落し紙・鼻紙・焚き付けなどに用いる貴重なもので子供の自由にはできない。

 ふと見ると父のテーブルがあります。 貧しいといっても父は公務員でしたのでさほどでもないのですが、貧しさに不似合いなほど立派なテーブルでした。

そのテーブルに書道に使用する真っ白な半紙がおいてあります。10センチほどの高さに積んであります。 そこは子供など寄せ付けない神聖な場所で、しんとしてそこにあります。 願ってもない材料です。

 

 それをいけないことと思いながらも、1枚失敬してそれを貼りました。

 これ、初の盗みです。

 貼った凧の要所に、風で剥がれぬように針で糸を通し結わえます。幼児といってもあなどれません、こんなことにも気がとどくのでした。

 

 凧には足をたらさないと、くるくる回転してしまい、うまく上がらない。

わらで編んだわらひもを代わりにした。ついでに申しますと、わらひもも無かったら

わらを束ね、自分で編んだりもしたのです。かるく湿らして棒で叩き、なうのです。

 

 藁なわ は乾燥していると軽くて役に立たない。 先端を水でぬらすと重みが増す。こんな工夫もしたのです。繰り返しますが幼児ですよ。

 貴重な新聞紙も張り付けてみたりもした。これはたちまち破れて飛んで行ってしまう。

 

 見よう見まねで凧はできた。

 凧は揚がった。

 

 それにしても真っ白な凧なのが恥ずかしい。

 

 絵を入れよう!

 

 入学まえの自分はまだ筆記用具を持たない。見たこともない。

 そうだ、さっき父のテーブルに筆のあるのを見た。

 乾いたことのない硯には墨がある。一気に描き上げた。

 

 ついに絵のついた凧は揚がった。

 

 

すると小学4~5年生くらいの少年が走ってきた。

「この絵は誰がかいた?」「おいらさ」するといきなり殴られた。

「痛、な、なんでぶつのさ」 「嘘つき! おまえにこんな絵かけるわけないだろ!」   、、、うそつきとはなんだ!

 夕方である。帰る少年にくいさがって、「ねえ、なんで嘘つきなんていうのさ、どうして嘘つきなのさ、」「、、、、」

 この少年はも少し遠くからこの広場に凧あげに来たらしい。「ねえ、どうして嘘つきなのさ、どうして嘘なのさ」

 歩く少年にいつまでも食い下がり、小走りについて行く私でした。少年はくいさがる私をそのままに、下を向き、拳をかたく握りしめ足早にあるくのです。

 

 こんな絵がおまえに描けるわけがない?

 だから嘘つき? その意味が全くわかりませんでした。

 

 後年想うに、この少年はきっと絵が好きだったに違いない。ふだんから暴力など使わない少年であったに違いない。それをこんなちっぽけな幼児に負けたことが信じられなくて、おもわず手がでたのだ。

 それが確かにこの子が描いたと察知したのだ。幼児を叩いたことを恥じていたのだ。

 

 終戦間際とは、新聞は1枚。チラシなし、本なし、図書館なし、印刷ものなし。

いわんや子供向け漫画などなし。田舎では絵などどこにもない。

しかしそのとき描いた絵は自分の頭から発したものではなかった。いまでもそのとき描いた絵を覚えているのだが侍の少年の顔のイラストだった。どこかで目にしたものが記憶の引き出しにあり、それを描いたようだ。

 いったいどこで目にしたのだろう。

しばらく後キンダーブックとかの文化が急激に流れ込み、そこにはイラストがあったが

描いた絵は別物である。

 

 

 感心するのは、初めて手にした筆記用具、筆。それに墨をつけ、墨のふくみ具合も誤りなく、下書きもせず、墨もたらさず、失敗もせず、なんら筆運びにためらいもなく、線の強弱も正確にあやつり、一気に描き上げたとはどうしたことだろう。紙上の配置も正確だったのを覚えている。

 

 

 後年プロとして絵を描くようになるのだが、この時から何も変わっていないのだ。

 80歳近くなった今、我がことながら別人としてこの子として見るとことができるのだが、よくもまあこんな子供が容易くやってのけたものだと舌をまく。

 

 

 

絵についておもうこと

俗に言う筆おろし

 私の場合、最初に文字どうり筆を下した瞬間になにかにつらぬかれてしまったようだ。それがちっちゃな漫画とは! コンパスの芯になってしまったので結局生涯逃げるに逃げられない。これが幸なのか不幸なのかわからない。

 こんな時期に、はや生涯の道が決まってしまっていたようだ。

 

  絵にうまい、へたがあるのを知らなかった。人が普通に話すように誰でも描けるものと思っていた。

 

 幼稚園や保育所に見られるような絵は生まれつき描けない。正確に描いてしまうので

考えなくてはあのようには描けない。幾分不幸とも感ずる。